「天気の子」を観た

「天気の子」をさっき観てきました。

 

以下、思ったことを忘れないうちに書いときたい、というだけの乱文です。

 

まずこの映画を観るにあたって、「予告編やあらすじ等の事前情報をなるべく一切目に入れないようにして先入観無しで体験したい」という気持ちがありました。
ツイッターでも「天気の子」「新海誠」「天気」などをミュートワードに設定していた。タイムラインに「明日の天気」も流れてこない。

 

おかげで冒頭の映像から度肝を抜いてしまい、ポテトを食べる手が止まって冷め切ってしまった。映像表現は本当に凄かった。

 

今回の新作の「天気の子」というタイトルを知ったとき、新海誠はこの作品に大切なものを賭けていると感じました。

新海誠作品は映像が美しいと言われていますが、それ以上に舞台装置の天才だと思う。

 

 

秒速5センチメートル」では雪という天気のせいで電車が止まり、打ち上げられたロケットの行先を見続けるけど、心は桜の木に囚われてしまう。

人の力では変えようがない世界で歩み続けるしかない悲哀や暗澹を、怒涛の舞台装置で浮き彫りにしながら描いていく。その舞台装置の映像が美しいものだから心に刺さって仕方がない。

胸に突き立てられたものの現実味を伴う生温さが、この作品を気持ち悪く感じる人が多い要因だと思う。でも好き。

 

 

その新海誠が、あらゆる装置を使って緊密に組み立てた世界が「君の名は」だったように思う。

巫女の髪飾りの組紐、口噛み酒といった装置が、黄昏という天気で繋がり、過去と現在と未来をひとつに結び、それを表現する美しい映像技術と音楽に打ちのめされてしまった。

変えようがない世界に立ち向かうことに、一つの答えを提示した作品だった。好き。

 

 

そこで発表されたタイトルが「天気の子」ですよ。

何度も言いますけど、天気はこれまで新海誠作品でとても重要な役割を担ってきたと思う。

その天気を自由に変えることができるという力は、新海誠作品の中ではもはや神にも近い存在だ。

ヒロインが舞台装置そのものとなってしまって、物語を捻じ曲げる力を持ってしまう。

必然性とか因果関係を無視して、ヒロインは天気、すなわち物語を操ってしまう。機械仕掛けの神が降臨しまくる。

ですが、映画の冒頭で占い師の老婆が言っていたように世界にはホメオスタシスが存在する。一定の状態を保ち続けようとする世界、平衡を取り戻すために働いていた力学(終わらない雨)に抵抗するためには、晴れを祈るには大きな代償を支払わなければいけない。

 

そこで一番印象的だったシーンが、警察から逃げた三人がラブホテルに駆け込むシーンです。冷えた身体を温めるために順番にお風呂に入る三人。

最後にお風呂から上がった天野陽菜を見てハッとした。バスローブを纏った姿は白装束のようで、これではまるで禊を終えた巫女だ。

彼女はラブホテルのジャグジーで湯浴みをしながら、世界に抗った代償として、人柱として天気の神に差し出される覚悟をしていたのだろうか。一体どんな気持ちだったんだろうか。

このシーンで「天気の子」というタイトルの意味がガツンと胸に来て泣いてしまった。

 

主人公である森嶋帆高は、天気の神に奪われてしまった天野陽菜を取り戻しに行く覚悟を決める。これは新海誠の決断でもあり、この決断こそ非現実なまでに大きな舞台装置を用意して「天気の子」でやりたかったことではないか。

 

「祈る」ということは、「そうしたい」という強い決断の表れだ。決断には大きな代償が付きまとう。

それでも、天野陽菜は人々の笑顔のために晴れを祈り、森嶋帆高は天野陽菜のために雨を祈った。

 

どうしようもない恒常性が働き続ける世界で、二人がこうして出会うためなら東京が沈んだっていい。そういう世界を選んでもいい。きっと大丈夫だから。

 

これまでの作品を経て、新海誠によってそういう「祈り」が提示されたことにグッときました。

本当にいい映画だった。

 

ありがとう、天気の子。

 

 

 

あとiPadのタッチキーボードで就活のESを書くのは大変そうだと思う。