ブログと人の文章と脱線
三日ぶりの更新になりました。このブログを始めて以来の快挙です。
とはいっても書く内容は思い浮かばない。
昼寝から起きてブログ書こうかなと思ってアプリ開いたんですけど遅筆のあまり20分かけて「周りの人が続々とブログを動かしていて、人の文章を読むのが好きな人間としてはうれしい」しか書けなかった
— ろはる (@road_Loharu) 2015, 1月 17
書きたい内容が頭の中にあっても、漠然としたそれを文字に出来るくらい整理してから文章にアウトプットする、という行為が遅いんですね。たぶん。ある程度考えがまとまってないと文章って書けないので。
だから人の文章を読むのが好きなんですかね。人の考えを見聞きするのはとても面白い。
それと比べると漫画は、漠然としたものを漠然とした形のまま伝えられるものだと思う。
特に、所謂サブカルと言われるジャンル(僕はこのカテゴライズの仕方が苦手なんですが)の漫画は、曖昧で、輪郭がはっきりしていない。「言いたいことがわからない」などと言われる。
僕はそういった曖昧な漫画(中身の無い漫画ということではない)が好きで、また漫画のいい所は輪郭のぼやけた所だと思うし、物語や伝えたいことが、文章と絵の視覚的な情報を通して曖昧なままこちら側にやってくる。その曖昧な輪郭が心地よい。漫画はサイコー。
小学生か中学生の時、国語の授業で「言葉は発せられた瞬間に一度死に、受け取られた瞬間に生き返る」といった話を見た覚えがある。道徳の授業だったかもしれない。僕は「道徳」の教科書が結構好きで、先生が音読してるページとは別のページの話を一人で黙々と読んでいた。
僕はこの話がずっと好きで、とてもやさしい話だと思う。
ブログでも小説でも、書いた時点で文章は死んでいて、それらを受け取った人の中で考えや物語が生き返っている、という考え。だから受け取る側で文章の意味も変わってくるし、それが大切なものか、はたまたどうでもいいものか、ということも受け取る側で全て決まる。
そんなの無責任じゃないか、と思う人もいると思う。というか「言いたいことがわからない」と憤っている人はそう思ってるのかもしれない。
「言いたいことがわからない」というのは受け取る側の放棄宣言だと思うし、「言いたいこと」は自分の中で生き返らせて、自分で作り上げるものだと考えていて。そういった発した側と受け取る側の間の作法が、コミュニケーションなんじゃないかな、と。本との対話、とか言われてますけど、本を書いた人との対話、という面も大きのでは、みたいな。これは「何が面白いのかがわからない」にも通じると思う。思うが多すぎるぞこの文章。
なんでこんな話になったんですかね。みんながブログを動かしていてうれしいって話ですね。
思考が脱線する癖を治したい。
あとはもうアニメの話くらいしかないですね。
涙もろくなってきたのか、最近すぐに泣いてしまう。シンデレラガールズのOPでアイドルたちが笑顔で汗を書いている姿を見て泣いてしまった。アイドルはみんなかわいいし、卯月ちゃんの笑顔は本当に元気をくれる。これからも泣きながら観たいと思う。がんばれ双葉杏。
幸腹グラフィティはいいですね、美味しいごはんはいい。
ローリングガールズもいいですね、ラーメンはいい。以下ずっと同じ感じなので割愛します。
そういえば最近は比較的早起きの一日三食の生活ができていて、おかげで風邪気味で少し頭が痛い。なぜだ。
体調を整えるために丸亀製麺へ暖かいうどんを食べに行こうと思う。